御殿場へ伝えられたみすず細工

2012.3.9
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岩手県一戸郡鳥越のもみじ交遊舎鈴木館長さんや埼玉県の服部武さんから、みすず細工の製造法が御殿場へ伝えられたと教えていただいていました。御殿場の行李そのものに初めは興味はなかったのですが、みすず細工とは違うものを見たときに“みすず細工とは何か”がはっきりすると思うようになり、静岡県に行くことにしました。昨年6月に富士竹類植物園に行き、竹類について詳しい株式会社エコパレの柏木治次さんに御殿場の竹行李や竹事情などについて教えていただきました。翌週は御殿場市立図書館や沼津市歴史民俗資料館でも資料を見させていただきました。ご協力いただいた皆様に深く感謝いたします。
静岡県を訪ねてわかったことをお知らせします。
〔 〕書きは、私の補足です。

<御殿場市史編纂委員会編「御殿場市史 別巻Ⅰ」1982年 452~454頁 より>
御殿場付近で竹行李が始まったのは明治20年代の初頭のことで意外に新しい。一説によると、その創業者は信州松本付近の出身者「林梅吉」なる人だという。 (中略) 伴野京治は、昭和10年3月に林梅吉〔当時74歳〕の所在(当時三重県名張町に在住)を探り当て、長野県人でありながら御殿場で竹行李を始めた動機や当時の状況などについて文通で回答を得、『北駿地方竹行李の由来』(昭和10年5月発表)にその全文を載せている。
それによると、「御殿場地方にて竹行李製造を思い立った動機は、東海道線箱根トンネル工事に従事した土工から、足柄山にすす竹がたくさんあると聞いたが、その後幾年を経過したか記憶がない。竹行李は信州松本市地方の農家の副業であるが、明治20年頃は原料のすす竹非常の高価で・・・思い出したのが前に聞いた足柄山のすす竹です。明治20年5月足柄山へ箱根方面から視察に来たところ、この山は望み薄く、小田原に1泊して御殿場へ来たところ、夕立雨に遭い下宿のある飲食店に雨宿りした際、ここで保土沢製の笊を見てその製造元を訪ねたところ、これは北久原の長さんの製造したるものとの事に、よってこの北久原の長さんを訪ねて原料のすす竹も見、いろいろ聞いたところ、その竹は保土沢にて切り出しているとの事に、それより保土沢に行き、その夜はここに宿泊し翌日同所の勝又金蔵氏方へ行き竹切出しの交渉したるところ、5月末の事とて、農事多忙のためその意を得ず、同年8月を約してひとまず帰国しました・・・」と語り出している。
以後、梅吉は同年(明治20年)9月再来。翌21年10月に3度目の来殿をした。この時は萩原の野木重左衛門所有の長屋を借り、60日間ほど竹行李製造を試み、試作品を上宿の奥村下駄店に売ったという。かくして、富士山麓のすす竹利用に確信を得た梅吉は、明治22年4月に4度目の来殿をし、以後37年に故あって三重県に転居するまで、当地にて竹行李の製造に情熱を燃やした。
さらに梅吉は次のようにも述べている。「何分にも横浜の注文が大多数故、29年9月信州へ職工の募集に参りました。その結果12月迄に私の許へ総数300人、他に花村第治・酒井清十郎この二人の許へおよそ100人、それより引続きぽつぽつ参り、30年4月およそ500人の信州人が入り込んでおりましたが、この人々も5月始めまでには農事の関係から8分通り帰国し、農が終わるとまた来るという有様で数年を過ぎて来ました。」
(中略) はじめ北駿地方の人々は、竹行李作りは普通人のする仕事ではなく、特殊な職業のように考えていた。だが輸出向けの生産も盛んになり、竹行李作りが有利であることを認めるや、最盛期には印野・原里などをはじめ御殿場のほぼ全域で作られ、その戸数2000軒に及んだという。(中略)勢い農家の生活にも潤いを生ずるが、この事について梅吉は、一例であろうが次のように述べている。
「当時(明治30年ごろ)は白米1升金7銭5厘、大工職の日当金20銭、竹行李屋は1日1円以上の金をもうけましたので、地方人の製造し始めるのも無理はありません。30年ごろは猫も杓子という様でしたが、これは確か北郷村一色の人だと記憶していますが、私の入弟子は一色に3人ありますが、この弟子から伝授を受けた大工職で子供が17、8歳を頭に7人もあって貧乏のどん底にいましたがひとたび竹行李の製造を始めるや借金は返す、田畑は買う、後には蔵まで建てたという程でした。又、竹行李の始まらぬ頃、印野村北畑辺りの人は、村内中等以下の生活者はほとんど米を口にしなかったと思います。なんとならば私が北畑のある財産家へ参りました時、この家は家族11人暮らしで1ヶ年に米1石より食わぬといっていましたが、これを思うと、中流以下の人の口へは入らなかったと思われますが、竹行李が盛んになって竹切りが忙しく利益も莫大で、炭薪を町に持ち出してようやく3升5升と買って帰ったものが、今度は米俵を馬の背で運ぶ有様となりました。」
〔伴野京治氏は『北駿地方竹行李の由来』の中で、林梅吉翁が北駿地方における竹行李の元祖―恩人であることは竹行李関係者が等しく認めていると書いています。〕

<伴野京治「北駿地方竹行李の由来」、「竹行李に関する資料」1984年収録 より>
〔林梅吉の許で働いていた者が親元にお金を送ったときの面白い話が載っていました〕
全く村内の信用のない者であったが、今回親元へ金30円送金した事が大層村内の評判となり青年達は、御殿場には金の生る木が生えているというほどの騒ぎで、気の早い4名が飛ぶようにやって来ました。〔これが信州の人々が御殿場に出稼ぎに来るきっかけとなったようです〕
〔伴野京治氏が原料のスズタケが枯死し、製造業者の経済が逼迫してることを伝え梅吉の意見を聞いています〕
竹行李の製造は最早時勢に遅れていはせぬか、ことに御殿場ものは非常に粗製である、これを改め粗製乱売を防ぎ優良品を高価に売るべきである。現今は何十円という皮製のトランクを持つ世の中である。竹行李業者は組合を結成して製品の販売、原料の買入等に一工夫あるべきである。富士山の竹は花が咲いても非常な夏の日照でも無き限り全滅ともなるまいが、すず竹は刈り始めて50年、例令枯れずとも全滅同様であろう。交通便利の今日何れからなりとも輸入はできる。 (中略) 竹行李の発祥地は岩手県気仙郡で、それより信州に入り更に御殿場に移ったものである。現在気仙行李は御殿場製の4倍の時価を持っている。粗製乱売を慎み品質を改良して市価を高めたならば、原料竹の移入くらいあえて苦にするには至るまい。
〔林梅吉の人生は波乱に満ちていました。「100年前に書かれたみすず細工」でも紹介しましたが、新聞にやや馬鹿にした描写で“スカンピンの若夫婦”として書かれていました。(梅吉は明治10年に林家に入籍しましたが、明治34年には離籍しました。)
梅吉は御殿場で数年間は一人でコツコツと竹製の弁当籠や手鞄を作っていましたが、竹行李の製造に手ごたえを感じ信州から人を募り御殿場で本格的に行李の製作を始めます。御殿場近辺の人々にも自ら作り方を教えたのですが、なかなか順調には行かなかったようです。仕事仲間が指導者を信州から連れて来てようやく竹行李がものになりました。また梅吉は竹割り機械の発明もし、注文が殺到しました。竹行李の製造で儲けていたものの、日清戦争(1894~1895年)・日露戦争(1904~1905年)で無一文になってしまいました。明治37年(1904年)に梅吉は三重県に転居しました。それは三重県伊賀国名張町の竹行李製造工場の監督を頼まれたのがきっかけです。しかし不運にもその工場が破産してしまい報酬金はもらえず、所持金を使い果たし500円程の損害も被りました。仕方がないので自分で竹行李の製造を始めたのですが、明治38年中に少々利益があった程度のようです。
大正11年(1922年)に御殿場の新橋浅間神社に竹行李25年の記念碑が建立されました。しかし梅吉の手紙には、「地方人の記念碑で私には何の関係もない」と特記してあったとのことです。竹行李二十五年記念碑は、御殿場に竹行李が産業として定着し、竹行李業者が集ってできた岳東合資会社の設立からの年数を指しています。林梅吉が御殿場に伝えた年が起源とはなっていません。〕

<印野地区竹行李復元事業実行委員会編「印野の竹行李」1994年 14頁 より>
昭和の初期頃まで仲買人は、竹行李に優劣の格差をつけるため、竹行李の縁芯に特極上、極上、上、中、並と5等級に分け、矢立ての筆で書き入れ、等級によって単価の差があるので、生産者は優良品を造るために切磋琢磨して腕を磨いた。
このようにして印野の竹行李は、他地区のものと比べものにならない、素晴らしい優良製品であったので、製品の80%が京浜地区に化粧箱用として販売されていた。
しかし、支那事変、太平洋戦争と進むにつれ需要が多くなり、質より量の時代となり、製品もやや粗製乱造となり昔の面影は段々と薄れていった。しかし、明治の中頃信州より竹行李指導者として印野に来られて定住された、草間、小松、三須、青柳各家の先人達は、竹行李つくりの伝統とプライドを最後まで守り、素晴らしい竹行李つくりの名工であった。
〔松本のみすず細工も粗製乱造の傾向があったようです。大正12年(1923年)1月に松本竹行李卸商組合は「美篶製品改良事項」を作り、規定を守るように竹行李製造家に対して通知しています。〕

記者の感想
「印野の竹行李」に、信州から移り住んだ指導者達がプライドを持ち続けた素晴らしい名工であったと書かれていることを大変うれしく思います。
「みすず細工の特徴は何か?」という課題を持って静岡を訪ねました。松本でも質はピンキリだった思うのですが、御殿場の記録から、松本の人の頑固で生真面目な一面が良いみすず細工を知らしめたのではないかと考えました。みすず細工の定義は、「松本(周辺も含め)の人がまっすぐに仕事に向き合ったスズタケ細工」だと思います。抽象的な言い回しですが、心意気こそがみすず細工だったのかもしれません。
梅吉の「よいものを作るべきだ」との思いは、今の時代にも必要とされる言葉でしょう。また、スズタケの乱伐にも釘を刺しています。実際に山に入りスズタケを刈り取っていると、山の恵をいただいて物を作り、山を動植物が住みやすいように整備することが人間の役目のように感じます。経済もその中で治まるようにしないと続かないと言われているような気がします。
梅吉の生涯を思うと何か切なさを感じます。竹行李25周年の記念碑は自分には関係がないと言った梅吉の気持ちはどうだったのでしょうか。一見サバサバとしているようにも感じますが、尽力したにもかかわらず不運に見舞われたことで意識して関係ないと思いたかったのではないかとも受け止められます。これは私の想像ですが、伴野京治氏が梅吉に御殿場の行李の過程について尋ねたことを梅吉は大変喜び、気持ちが整理されたのではないかと思います。原稿用紙24枚の回答が物語っていると思います。

静岡県でみすず細工の流れを感じてみよう!
富士竹類植物園

数多くのタケ・ササ類が園内に生えています。スズタケもありますよ。
写真の手前の背の低いがフイリスズ、奥の背の高いのがスズタケです。


タケ製品の展示も豊富にあります。スズタケで作られている製品がいくつもあります。岩手県のものもあります。みすず細工は展示されていません。


約100年前に作られたみすず細工の行李を持って御殿場の行李と比べさせてもらいました。編み方もヒゴの厚みもほぼ同じように感じました。保存状態の違いのためか御殿場の行李のほうが黒かったです。写真の左がみすず細工、右が御殿場の行李。
様々な竹に関する展示品を見ていると日本人と竹の長いつきあいも見えてきます。

柏木さんに出題されて困った問題
1、笹と竹の違いは何ですか?ヒント:スズタケは笹ですよ。
2、ザルとカゴの違いは何ですか?ヒント:そばザル、買い物カゴ
みなさんわかりますか?
富士竹類植物園 ホームページ
 静岡県駿東郡長泉町南一色885   
 TEL 055‐987‐5498

沼津市歴史民俗資料館
御殿場から沼津へ行李作りは伝わっていきました。
沼津市歴史民俗資料館には、国の重要有形民俗文化財のスズタケ行李があります。
沼津市歴史民俗資料館の漁具2,539点が重要有形民俗文化財に指定されているため、道具を入れていた行李もその中に入っています。写真は出刃類を入れた小さな行李「出刃行李」です。


沼津御用邸記念公園内には沼津垣があります。ハコネダケで作られた竹垣です。松本では竹垣は隙間があるものがよく見られますが、潮風と砂を防ぐものなので隙間がありません。
沼津市歴史民俗資料館 ホームページ
 静岡県沼津市下香貫島郷2802-1(沼津御用邸記念公園内)
 TEL 055‐932‐6266

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   (2012年4月11日加筆しました)