国宝松本城の内堀の外周を公園と指定され市民・観光客の憩いの場として愛されています。
松本城・公園周辺には300本のソメイヨシノが植えられていて、桜の季節には大勢の方が訪れます。
また年間公園内では、「国宝松本氷彫フェスティバル」など多数イベントなども開催されます。
公園の歴史 現代まで「国宝松本城HPより」
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松本農事会の試作地
松本農事会の農事試験場時代明治13年(1880)に安曇郡・筑摩郡の有志50人によって松本農事会が組織されました。この会は、農業試験場にあてる目的で松本城本丸と天守および附属の官庫を借りいれ、果樹蔬菜(野菜)の新種を試験栽培し会員に配布しました。歌人窪田空穂の回想によれば、明治24年から28年頃、本丸庭園の中央に蔬菜畑、西方の天守に接した方がリンゴ畑、北方の土手側に垣造りで三重にブドウ畑が続いていたといいます。天守の月見櫓に畳を敷いて休憩室にし、天守に登る者からは一人5厘を徴収したとも書かれています(『窪田空穂全集 第6巻』)。この試作場は、後に本丸庭園が松本中学校の校庭になるにあたって返還されました。
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松本中学校の建築
松本中学校の開校時の錦絵明治9年(1876)に開智学校に擬洋風校舎が新築され、この校舎の中に変則中学科が設けられました。その後名称は幾多変わって松本中学校になります。松本中学は明治18年に二の丸の古山地・新御殿跡に新しく校舎を建築し、以後昭和10年に移転するまで二の丸が校地となりました。校舎は増改築されていきますが、大正8年の校舎配置は別図のようでした。
明治35年には、校庭の拡張の必要から本丸庭園を中学校の校庭として使用するようにしました。
大正8年の松本中学校校舎配置(出典:長野県松本中学校 長野県松本深志高等学校 九十年史)
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公園としての整備
昭和5年(1930)に松本城が国の史跡に指定されると、これが転機となり翌6年には管理が松本中学校から松本市へ移管されました。そして、中学校を移転して史跡地を公園化する計画が進められました。昭和10年に中学校が蟻ヶ崎に移転しました。市は13年に松本城天守閣広場使用規定を設け、さらに公園とするための設計を依頼もしました。しかししだいに戦時色が強まり、計画は具体化しませんでした。
公園化が進んだのは太平洋戦争が終結してからです。昭和23年から二の丸を中央公園とし緑化する事業が開始されます。市立博物館の脇には小動物園が設けられたり、二の丸南部には大きな噴水が設置されたり、北西部三の丸には児童遊園が開園したりしました。市立博物館は昭和43年に日本民俗資料館として新築され(現在松本市立博物館)、昭和62年には児童遊園が閉園されるなど変化して現在の姿になってきました。
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堀の埋め立て
明治になると堀の埋め立ても始まりました。最初に埋め立てられたのは総堀の南部と外堀の東部です。明治10年代初めに大手門桝形の東側に四柱神社がおかれるとこの敷地として埋め立てが始まり、次第に範囲を拡大しました。外堀では二の丸に松本裁判所が設置されるとその出入口用に東側の一部分が埋められました。三の丸への入口にあった馬出しの堀も埋められ始め、明治20年代後半には姿を消します。二の丸に設置された松本中学校の校舎増築にともない明治30年代後半には内堀の一部も狭められました。
大正の中期以降には、住宅地とするため総堀の西側部分や外堀の南・西部分が埋め立てられていきました。
最後まで残っていた総堀の北側部分は、昭和初期に市営プールが造られるなどして、姿を変えました。大きな堀の埋め立てはこの時期で一段落しています。