熊倉の渡し跡くまくらのわたしあと

熊倉の渡し跡
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  • 乗り場跡
  • 石碑

松本藩の重要な交通の要衝の地であった。

熊倉中村から下田へ通じる犀川の渡し船が往復し、昭和30年ころまで見ることが出来ました。
熊倉の春日神社北側に、使用されていた渡し船が残されています。

 

熊倉の渡し

この渡し場は松本藩の成相組(二十ヶ村)長尾組(十六ヶ村)保高組(十四ヶ村)
松川組(十六ヶ村)大町組(五十四ヶ村)等を結ぶ天下の公道であり手形を持った
旅人の往来はげしく当時は松本藩の重要な交通の要衝の地であった。
今から三百余年の昔貞享三丙寅年(1686年)十月十日(太陰暦以下同じ)に端を
発した貞享騒動で過酷な年貢に苦しむ農民を救おうとした同志の頭領「多田加助
が、その子弟諸共捕縛され十一月十六日拂暁投獄の身となり朝もやの立ちこめ
るこの犀川を渡り対岸の番所と夫婦別れ石を経て松本領に護送された。この数日
後の十一月二十二日出川と勢高の両刑場に於て磔刑八人、獄門二十人、総勢二
十八人が極刑に処せられて事変は終焉した。
加助は十字架の上から城をにらみつけて「二斗五升」と絶叫しつつ最后の息絶え
たと語り伝えられている。この度遺跡公園の建設に当たり、史実に残る百姓一揆
の一端を記し義民の最後を悼み末永く義挙を後世に語り伝えようとするものである。
平成三年四月                 熊倉遺跡保存会

 

乗り場跡

春日神社「熊倉の渡し船」

熊倉の渡し船

 

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16. Mar 2020