復活させたい江戸時代の旧町名

歴史
Sun, Mar 16, 2008
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復活させたい江戸時代の旧町名

『享保13年(1728)秋改松本城下絵図』によると松本城は典型的な近世城で、城郭・城下町ともに計画的に造られているといえます。
城下町は南から北へと広がり、南の十王堂から北の十王堂まで歩いて約3.2kmです。そのうち、町人地は、女鳥羽川の南に中心を置きながらも、すべて街道(善光寺道)沿いに配置されています。
武家地は、町人地とはっきり境界を分けて北部中心に配備されています。
町人地のさらに外側、東から南にかけて社寺を並べて有事の防衛空間としていました。

<旧町名マップ>
この地図は平成16年の都市計画図に『享保13年(1728)秋改松本城下絵図』を重ねたものです。地図中の(数字)と本文中の地名とが対応しています。
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旧町名マップ

(1) 口張(こうばり)町の由来 <武家地>
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武家屋敷の最北端に位置する。「信府統記」に「同心町北ノかうばり町東西七拾二間余、家数南ヶ側七軒北ヶ輪軒」とある。「松本市史」では紅梅町とあることから、当初紅梅の木があって起源となり、後に今の名に訛ったのではないかと述べられている。

(2)同心(どうしん)町の由来 <武家地>
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城外武家屋敷の一町名。町名はここに同心番所が置かれていたことに由来するという。町は善光寺街道に沿った萩町と堂町、西町を結ぶ三筋の小路から成り立っていた。

(3)萩(はぎ)町の由来<武家地>
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この通りは善光寺道と呼ばれ、旅人や物資を運ぶ中馬の行き交う道であった。道の左右に萩を植えて垣根とし、侍屋敷を遮ったので、萩町の名がつけられた。水野忠直が慶安のころに板塀に改めたといわれているが、ゆかしい町の名は今に伝えられている。

(4)天白(てんぱく)町の由来<武家地>
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この町にある天白神社には、天正元年に松本城に入った石川数正が、城の鬼門よけとして出身地・岡崎より勧請したという伝承がある。水野氏の時代になって、ここに城外侍屋敷が造られると、この天白神社にちなんで町名がつけられたという。

(5)中ノ(なかの)丁の由来 <武家地>
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城外武家屋敷の一町名。萩町の東に萩町に並行して東へ天白町、中ノ町、東ノ町と三筋の通りがあった。
中ノ町はその真中に寛永十九年(一六四二)に命名されたという。「信府統記」には「中ノ町南北百六拾六間余、家数西ヶ輪二拾軒東ヶ輪三拾一軒、此町東西小路二ヶ所アリ」とある。中の町とも書く。

(6)東ノ(ひがしの)丁の由来
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城外武家屋敷の一町名。天白町、中ノ丁の東に位置するためこの町名がついたといわれる。「信府統記」には「南北百六拾五間余、家数西ヶ輪三拾一軒、東ヶ輪三拾軒」とある。享保十六年(一七三一)の絵図には間口六間・奥行七間程度の町割りが示されており、今日でもその名残をとどめている。東ノ町とも書く。

(7)堂(どう)町の由来<武家地>
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城外武家屋敷の一町名。
戸田氏の菩提寺のひとつ、妙光寺の御堂がこの地にあったので、この町名がついたといわれる。
明治維新の際、古いしきたりを改めようと、「御」のついた町名から「御」をとり、堂町となったという。

(8)西(にし)町の由来<武家地>
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城外武家屋敷の一町名。松本戸田家の祖・康長が元和三年(一六一七)から寛永十年(一六三三)までの間に、安原町の西に武家屋敷を設けたため、この町名がついたといわれる。「信府統記」は「西町南北百九拾七余、家数西ヶ輪(西側)二拾七軒、東ヶ輪(東側)二拾五軒」とある。

(9)旗(はた)町の由来<武家地>
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城外武家屋敷の一町名 西町と徒七町の中間に位置し町の形が旗指物の形に似ているのでこの名が付けられたと言う。

(10)上下(かみした)町の由来
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城外武家屋敷の一町名。
「信濃信府」には「裏新町東西九拾九間余、家数北ヶ輪九軒、南ヶ輪二軒」とある。
享保十年、同十六年の城下町絵図には裏新町が新町と書かれており、さらに幕末期には上市町と名前を変えている。

(11)下下(したした)町の由来
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城外武家屋敷の一町名。足軽町の天白町、中ノ町、東ノ町の南端を東西に結ぶ下町に並行して、摂政院から東へ新しく足軽町が造られ、下下町とか表新町と呼ばれるようになった。「信濃信府」には「東西八拾九間余、家数北ヶ輪拾二軒、南ヶ輪拾四軒」とある。江戸時代末期には下下町の呼び名が定着した。

(12)安原(やすはら)町の由来 <町人地>
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この辺りは古くは安佐端野(麻葉野)原と呼ばれていた。
小笠原貞慶が天正十年に深志城を回復し、深志の地を松本と改め、同十三年には城下町の町割りを行った。
善光寺通に沿って造られたこの町人町は、「安佐端野原」の前後二文字をとって安原町と名付けられた。

(13)徒士(おかち)町の由来<武家地>
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武士は職分により住居地が定められていた。
お城の北にあたるこの東西の通りの西側には徒士屋敷が軒を連ねていた。

(14)和泉(いずみ)町の由来<町人地>
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町人町・東町の枝町の一町名。この町の成り立ちは古く、天正十三年(一五八五)頃といわれ、由来はこの辺りから清水が湧き出たからとも、倉品和泉という人物が住んでいたからともいわれる。東町の北に続く善光寺堂に沿い、家数百一軒、小路は南から東側に長称寺小路、観音小路、前栽小路、西側には袋町から東町に出る小路があった。

(15)袋(ふくろ)町の由来<武家地>
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水野忠直の時代(慶安のころ)に造られた城外侍屋敷で、江戸時代の終わりには六十石取前後の武士が住んでいた。この町は南が入り口で、中ほどは鍵の手に曲がり、北端は行き止まりという袋小路になっていたので形にちなんで袋町と呼ばれた。防備のために工夫された町割りである。

(16)上横田(かみよこた)町の由来<町人地>
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町人町・東町の枝町の一町名。和泉町の裏(東)に位置する町で北を上横田町、南を下横田町といった。町割りが行われた際、女鳥羽川の東岸、横田村から人家を移したので、この町名がついたといわれる。

(17)田(た)町の由来<武家地>
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城外武家屋敷の一町名。この辺りはかつて大門沢の左岸の低湿地で水田のあったところに慶安年間(一六四八〜十六五二)、水野氏により武家屋敷が設けられたので、この町名がついたといわれる。幕末の家数は東側十六軒西側二十一軒で、百石前後の武士の住む町であった。

(18)新(しん)町の由来<武家地>
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寛永十年に越前大野より松本城に入った松平直政は、
三ノ丸北門・北馬出しから北にかけて城外武家屋敷
を造った。最も新しい町であったので新町と名付けられた。
町の北の端には湧水池の深志大池があり、飲用水に用いられ、その流末は総堀に注いでいた。

(19)北馬場(きたばば)の由来<武家地>
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松本城北側、惣堀外騎馬修練が行われていた所から町名になる。「信府統記」には「北馬場東西百五拾九間余、北家数拾二軒南側堀端ナリ」とあり、東入り口には番所があったと記されている。

(20)鷹匠(たかじょう)町の由来<武家地>
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城外武家屋敷の一町名。
総堀の外、松本城西北に位置し、慶安年間(一六四八〜十六五二)に町割りが行われた。
「信府統記」には「鷹匠町東西百三間余、北ヶ輪八軒但シ南ノ端鍛冶細工所アリ」と、町の様子が述べられている。
後の戸田時代に鷹匠餌差が置かれてこの町名がついたという。

(21)葵の馬場(あおいのばば) の由来<武家地>
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場内三の丸にあった葵馬場に因む町名。この地で騎馬の修練が行われていたことを物語っている。
戸田氏の藩祖康長が徳川家康から許された葵の紋章に因み、この馬場の土堤に葵を植えたことがその名の由来という。

(22)上馬出し(かみうまだし)の由来<武家地>
上馬出しageumadasi3.jpg

馬だしは、城門の前に人馬の出入りを敵にしられないように築いた土手の事である。上馬出しは、北門馬出し郭から和泉町へ抜ける通りをいう。尚江戸が上手になるので城下町の北が上馬出しになり、東門馬出しから東町に抜ける通りが、下馬出しである。

(23)地蔵清水(じぞうしみず)の由来<武家地>
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この地は中世のころは市辻と呼ばれ、市が立ち賑わっていた。いつの頃か清水の湧く辺りから石の地蔵尊が出立したので、地蔵清水と呼ばれるようになった。地蔵尊は生安寺にまつられている。

(24)柳(やなぎ)町の由来
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往古、この辺りを泥町といった。天正十年、旧地を回復した小笠原貞慶が、天正十三年から十五年にかけて、宿城の町割りを行い、この地に侍屋敷を建てた。柳の木が多くあったので、柳町と名づけた。大柳町と呼ばれるようになったのは、明治以後のことである。

(25)出居番(でいばん)町の由来<武家地>
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出居番とは口々番所や筏番所へ交代で詰番にでる職のことで、水野氏の時代におかれたこの町は、それらの任務にあたる武士が居住していたところである。

(26)下横田(しもよこた)町の由来<町人地>
下横田simoyokota3.jpg

歴代城主の発領により、古くより寺町としての様相を呈していたが、一七三〇年代、既に現町名で二丁八間、二五一軒の人家を構え、職工人の町として栄えた。主に湧水を利用した紙漉足袋の製造など多く、維新後は県内初めて料芸街として官許され、伝統は現在に受け継がれている。

(27)東(ひがし)町の由来<町人地>
東町higasimati3.jpg

善光寺街道に沿う東町は、松本城下の中心。親三町の一つで、町名は城の東側に位置することに由来するという。「松本大名往来」には宿場町として栄えた様子が、「東町ハ諸国之旅人木銭宿、旅籠屋商人定飛脚之泊宿」と記されている。

(28)片端(かたは)町の由来<武家地>
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松本城惣堀の外の武家屋敷地帯で、東側のみ屋敷割りされたことから町の名がついた。「信府統記」によれば、「・・・・、片端南北二百二拾四間余・・・・」と家並が続いていた。

(29)下馬出町(しもうまだし)の由来<武家地>
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東門馬出し部から東町へ抜ける通りで、北門馬出し郭からの通りが上馬出しと呼ばれたのに対して下馬出しと呼ばれた。

(30)上土(あげつち)町の由来<武家地>
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松本城東側東門前の馬出し廊の堀の土を上げたところから町名となる。惣堀の外の武家屋敷。この上土にかつては牢屋もあったと記録されている。

(31)小柳(こやなぎ)町の由来<武家地>
城内武家屋敷の一町名。
大名町の東側、地蔵清水町と大柳町の南に位置した。
二〇〇石から三〇〇石前後の俸禄の武士の屋敷があり、北の大柳町に対して小柳町と呼ばれた。
「信府統記」には「小柳町、南北九拾間余家数西ヶ輪四軒東ヶ輪五軒」とある。

(32)大名(だいみょう)町の由来<武家地>
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水野氏時代までは大手南門通りと呼んでいた。女鳥羽川から北側の三の丸は、上級の武士が居住する地域であり、なかでもこの通りの両側は年寄や組頭などの高禄の藩士の居住する所だったので、この名がつけられた。

(33)西堀(にしぼり)町の由来<武家地>
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松本城西側の惣堀の外側南北に置かれた町で、城外武家屋敷の在った所。町の北端(現:税務署通り)に西の馬出しが設けられ、不開門(あかずのもん)が在った。

(34)土井尻(どいじり)町の由来<武家地>
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松本城三の丸の西南部に在り、城郭の外を巡る土居尻であったことから名付けられた。西南に低く、堀の水は北から西南に潤し、中流武士の屋敷が並んでいた。

(35)土手小路(どてこうじ)の由来<武家地>
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この小路は総堀の土手に沿っていたので、土手小路といわれた。大名町の南端にあった大手門際より東へ六十間余、西へ六十九間余あり、東は辰巳御殿、西は土井尻へ通していた。大手南門から西の小路には、北側には武家屋敷三軒があり、一〇〇石前後の武士が住んでいた。

(36)六九(ろっく)町の由来<武家地>
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城内武家屋敷の一町名。
惣堀の外側、大手門前から女鳥羽川北側に東西にのびる町であった。
「信府統記」には「南門ノ外川端ニ厩ヲ造る、是ヲ外馬屋ト云、又六九馬屋トモ云、五十四疋立ナルガ故ナリ」と、この町名の由来が述べられている。

(37)縄手(なわて)の由来
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縄道から転じ縄手となった。縄は「真っすぐ」の意味を持ち通りの形から町名に三の丸堀と女鳥羽川との間の道で松並木の続く縄のような道であったという。

(38)鍛冶(かじ)町の由来
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町人町・東町の南端から山家組へ通じる枝町名。「信府統記」には「家数二十七軒、町幅三間。昔ハ紺街トモ云ヒ、中比鍛冶町と云ヒ、今ハ山家小路ト云フ」とある。享保年代ころには、山家小路と呼ばれていたが、江戸時代後期には鍛冶町の名称が定着した。

(39)餌差(えさし)町の由来<武家地>
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餌差町は城下町の東の出入り口に当り、町の東側には木戸と十王堂が置かれ、町番が木戸を守っていた。百姓や町人はこの木戸からの乗馬は認められなかった。町名はここに藩主の鷹の餌(小鳥)を差し出す役目の「餌差」を置いたことに由来するという。

(40)中(なか)町の由来<町人地>
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城下町親町の一つで、「中町ハ外町之為中故中町ト号ス」(故実伝連記)とあり、善光寺街道の道沿いであった。犀川通船開通(天保三年・一八三二年)の頃は、船も遡行していたので、塩・肴問屋が軒を連ねていた。

(41)宮村(みやむら)町の由来<町人地>
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町人町中町の枝町の一町名。南端には宮村大名神があり、信濃守護小笠原貞宗が井川に居館を構えた頃の暦応年間(一三三八〜四二)に守護神として宮村の地に祀ったという伝承がある。地名の起こりもこの頃といわれる。江戸時代の初めに町割りが行われ、その後奉公人や職人などが多く集住した。

(42)小池(こいけ)町の由来<町人地>
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小池町は松本城下の枝町十町の一つで中町に属していた。慶長十八年(一六一三)、城主小笠原秀政が飯田より入部の際に南半分を奉公人衆の屋敷にした。その中に小池甚之丞という軍学兵法の達人がいたので、その名を取ったという説と、この辺りに小さい池があったことに由来するとの説がある。

(43)飯田(いいだ)町の由来<町人地>
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飯田町は松本城下枝町十町の一つで中町に属していた。慶長十八年(一六一三)に城主小笠原秀政が飯田より入部した際に、飯田から来た侍衆や奉公人職人を置いたのが由来であるという。享保年間に家数には家数七十軒あり、主に鋳物師・紺屋・石屋・鍋屋などの職人が住んでいた。

(44 )本(ほん)町の由来<町人地>
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善光寺街道に沿う本町は松本城下の中心「親町三町」の一つで、本手橋(現千歳橋)から袖留橋(現緑橋)までの一丁目から五丁目までをいう。発祥は松本城築城の頃とされ、各種の問屋が軒を連ねる。松本城下の荷物の集散地であり、経済の中心であった。

(45)伊勢(いせ)町の由来<町人地>
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町人町・本町の枝町の一町名。城下町の西口の出入り口にあたり、西端には十王堂が置かれていた。町の規模は、本町から出口まで東西三町、五十六間、道幅三間半、家数百九十五軒で、東から上丁、中丁、下丁となっていた。

(46)神明(しんめい)町の由来

(47)博労(ばくろう)町の由来<町人地>
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博労町は松本城下の南で入り口に位置し、枝町十町の一つで、本町に属していた。本町とは袖留橋(現柳橋)を境とし、南の端には十王堂が置かれていた。古くは貢馬を集めて置いた所で馬町とか馬喰町といわれていた。元禄六年(一六九三)、博労町に改められた。