宿場

2007.2.13
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江戸時代松本にはいくつかの宿場が設置されていましたが、宿場には物資の輸送や人の通行のために伝馬(でんま)役、助郷(すけごう)役、人足(にんそく)役が置かれていました。こうした宿場は人馬の継ぎたてなどの手数料で収入を得ていましたが、往来が激しくなり負担が大きくなる一方、脇街道と並行する通り沿いの村との中馬の争いなども激しくなり、宿場の維持も難しいものでした。
奈川では尾張藩から「尾州岡船」の鑑札を受けて中馬稼業をしており、天下無敵といわれるほどの活躍でした。
また、他の藩領との境(村井、岡田、保福寺、横川、橋場(はしば)、川浦(かわうら)、大白川境(おおしらかわざかい)など)には口留番所(くちどめばんしょ)を設け、米、塩などの輸出入や女性や馬の通行を改め、藩への出入りを厳しくチェックしました。
【図】街道と宿場

村井(むらい)宿

 中世には芳川小屋(よしかわこや)あたりに村井氏の館があり、江戸時代以前から宿としての機能を持っていたと思われます。江戸時代には、中山道から分かれて善光寺参りや伊勢参り、松本城下へ行く人々で賑わいました。明治から大正にかけての大火で多くの建物は焼失し、現在では宿場の面影はほとんどありません。

松本町

 博労町(ばくろうちょう)から安原町(やすはらまち)を宿場としていました。旅籠は、主に東町(ひがしまち)にありました。松本町は千国街道や野麦街道などの起点でもあり、中馬の発着地として各地から様々な物資も集まり、各地へ運ばれていく、交通運輸や商業活動の中心地でした。

岡田(おかだ)宿

 善光寺街道の宿場として天正から明暦年間(17世紀中頃)にかけて新設されました。ここで道は善光寺街道と保福寺通りに分かれています。松本町から約1里とその距離は短いが、江戸から松本城下へ入る直前の宿で重要視されました。

刈谷原(かりやはら)宿

 善光寺街道岡田宿から北へ向かい「あだ坂」とも呼ばれる刈谷原峠を越えると宿に入ります。慶長19年(1614)にはすでに宿として形成されていました。弘化2年(1845)の火災によりほとんどは焼失してしまい、あまり古いものは残念ながら残っていません。

会田(あいだ)宿

 刈谷原宿から、北へ約1里10町にあり、御厨神明宮や会田氏の居館もあり、古来からこの地方の中心地でした。宿泊施設として本陣・脇本陣があり、旅籠も数多くありました。明治35年篠ノ井線の開通とともに、昔の面影を無くしましたが、その町並になお宿場時代の名残をとどめています

野麦街道の宿場

 野麦街道は、飛騨高山から野麦峠を越えて奈川寄合渡に至り、そこから木曽の薮原(やぶはら)に通じていましたが、江戸時代中期に寄合渡から奈川渡を経て松本へ向かう新しい道が整備されました。
 野麦街道の宿場は、波田、稲核(いねこき)、旧奈川村には入山(にゅうやま)、古宿、寄合渡、川浦などに宿屋がありました。
 「入山宿」に残る現在の松田屋の建物は、明治元年(1868)に建築されたもので、江戸時代の旅籠の様子を現在に伝えています。