街道

歴史
Tue, Feb 13, 2007
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街道

松本は、城下町として政治の中心地とともに、交通の要所でもありました。
北に向かって千国街道、西に向かって野麦街道、東に向かって武石通り保福寺通り、そして城下を南北に善光寺街道が通過していました。
【図】街道と宿場

善光寺(ぜんこうじ)街道

 北国脇往還(ほっこくわきおうかん)または北国西街道とも呼ばれ、五街道のひとつである中山道(なかせんどう)の洗馬(せば)宿から分かれて村井宿、城下に入り、岡田宿から刈谷原(かりやはら)、会田(あいだ)、麻績(おみ)、善光寺町を経て小千谷へ至る道です。
 善光寺参りの人々によく利用され、物資や文化交流に重要な役割を果たしました。現在、本町と伊勢町の角に「せん光寺道 野麦街道」、本町と中町の角に「せん光寺道 大町街道」の道しるべが建っています。

保福寺(ほふくじ)通り

 岡田宿の北、番所の東で善光寺街道と分かれ保福寺宿に入り、保福寺峠を越えて、上田から江戸へ向かうために利用された道で、江戸街道とも呼ばれました。松本藩では参勤交代の際はほとんどこの道を使い、江戸城米の輸送も保福寺宿に荷を集めて発送の拠点としました。

野麦(のむぎ)街道

 本町(ほんまち)の「牛つなぎ石」を起点に、伊勢町(いせまち)、渚(なぎさ)、波田(はた)を通り、奈川(ながわ)、野麦峠を越えて飛騨(ひだ)(岐阜県)へ抜ける道です。安房峠(あぼうとうげ)越えは難所が多かったので寛政2年(1790)に廃止され、以後は野麦峠を越えて、歩荷(ぼっか)や牛方(うしかた)による物資輸送が行われました。 この道を通って松本へ入る物資の中で有名なのは年取りの魚の鰤(ぶり)で、松本では「飛騨鰤」と呼びました。

千国(ちくに)街道

 六九(ろっく)から今町(いままち)を通り、城山の西麓を北上し、島内平瀬(しまうちひらせ)で犀川(さいがわ)・梓川(あずさがわ)を渡り、豊科(とよしな)方面へ抜けるのが千国街道です。場所によって仁科(にしな)街道、糸魚川(いといがわ)街道、大町(おおまち)街道とも呼ばれました。「塩の道」が一番馴染みの通り名。
 物資輸送道路としての役割は大きく、糸魚川から来る塩、魚類をはじめ越中(富山県)、加賀・能登(石川県)の特産物が運ばれました。

五千石(ごせんごく)街道

 善光寺街道と平行して松本と塩尻のあいだを縦断している道です。
 松本城下から東山山麓沿いの高島藩領の東、五千石の地域を通っているのでこう呼ばれました。 諏訪への近道だったので沿線の村では中馬(ちゅうま)稼ぎをするものが多く、しばしば村井(むらい)宿との争いの種となっていました。